2010年10月28日木曜日

字幕屋は銀幕の片隅で日本語が変だと叫ぶ



この本の筆者ではないが、ある有名な字幕翻訳者の翻訳は英語を少し知る人にはひどく評判が悪い。ある映画監督が翻訳されたものを再度英訳してそのひどさに絶句して翻訳者の変更を依頼したとも言われている。私のアメリカ人の知人も、日本語が少しわかるので、字幕が元の英語のセリフとあまりにも違うので驚いたと言っていた。

私などは漠然と、そうは言ってもいろいろと映画の字幕って特殊な要求が多くありそうだから大変なんだろうくらいに思っていたのだが、この本でそんなレベルではないことがわかった。

たとえば、字幕に要求される文字数制限を知っているだろうか。人は1秒間に4文字しか読めないというデータがあるようで、それにしたがって日本語の字幕の文字数は決定される。本書の中に以下のような例が出てくる。

男「どうしたんだ」
女「あなたが私を落ち込ませているのよ」
男「僕が君に何かしたか」

映画ではそれぞれを役者が1秒ちょっとでしゃべっている。したがって、字幕もすべて5文字に収めなければいけない。筆者は次のように変更した。

男「不機嫌だな」
女「おかげでね」
男「僕のせい?」

どうだろう。見事と言わざるを得ない。

映画字幕翻訳の本ということで英語の話が多く出てくるかと思いきや、中身はほとんど日本語についてだ。字数制限があり、日本語として映画のエッセンスを見ている人に伝えなければいけないという字幕の役割から、勢い日本語について考えることが多くなるのだろう。

漢字を使える場合と使えない場合。使えない場合にルビを振るか、それとも混ぜ書き(「だ捕」、「誘かい」、「ばん回」、「危ぐ」、「そ上」などのことだ)にするか。混ぜ書きは常用漢字などによる悪影響という。実際、新聞やテレビなどでもこのような混ぜ書きを見るのだが、筆者が言う「ひらがなに置き換えることで漢字それ自体が持つ意味を完全に消し去ってしまうことではないだろうか」という指摘はもっともだ。イデオグラフィック(表意文字)である漢字をもっと大事にしたほうが良い。

ほかにも、句読点というのは明治以降に導入されたものであるとか、日本語には「?」も「!」も無かったという指摘だとか、出来るだけ文字数を少なくしたいという一環した思いとともにユーモラスを込めて語られるが、日本語を考える上で重要な指摘ばかりだ。

エッセイ風な感じで読みやすい。お勧め。

2010年10月27日水曜日

駅伝がマラソンをダメにした



結構若い頃から正月に箱根駅伝を見ていたように思っていた。ところが、この本によると、日本テレビによる完全中継放送が始まったのは1987年だという。その前はテレビ東京が放映権を持っていたが完全中継ではなく、さらには日本テレビも完全中継を開始したのは1989年だ。それほどに箱根山中での生中継は技術的に難しかったようだ。

話がずれた。父の影響で早稲田贔屓だった私は野球もそして駅伝も早稲田を応援していた。1987年というとすでに私も早大生だったのだが、良く思い返してみると大学時代に駅伝をテレビの前で熱く応援した記憶はない。そうすると、やはりこの本が言うように90年代以降の箱根駅伝ブームから私もテレビの前で応援するようになったのかもしれない。ちなみに、早稲田は箱根駅伝の伝統校であるが、テレビ放送が始まってからの成績はさほど良くはない。90年代の黄金期の記憶が強いようだ。

本書のタイトルとなっている駅伝がマラソンをダメにするというのは、以前別のところからも聞いたことがある。ダイエーにいた中山選手が高校で指導にあたっていた時だったと思うが、駅伝という集団スポーツは本来の個人スポーツである長距離陸上競技とは相容れないというような発言をしたことがあったと思う。確か同じ頃に早稲田の渡辺選手が期待されながらも故障し、オリンピック選考に漏れたことがあったと思うが、これも駅伝の影響を指摘されていたのではないかと思う。

本書はタイトルで駅伝を批判しているのだが、実際には筆者の駅伝への熱い思いも中で書かれている。駅伝、特に箱根駅伝の弊害は、距離が長すぎるために中距離や短距離の選手が出場する機会がなく、大学特に関東の大学の長距離偏重主義を招いてしまうことやそれこそ箱根駅伝がゴールになってしまい、マラソンへの挑戦を考えない選手が増えてしまうことなどがあげられている。高校生も箱根駅伝を目指すがあまり、中距離には見向きもせずに、長距離に鞍替えする。大学も箱根駅伝による大学宣伝効果を考えるあまりほかの陸上競技よりも長距離しかも箱根駅伝を優遇する。結果、インカレの地位は落ち、関西圏の大学の地盤沈下は進み、日本の男子マラソンの国際競争力は落ちる。女子駅伝の人気がさほど高くないのと、日本の女子マラソンが国際的に競争力が高いのは偶然ではない。もっとも、女子の駅伝では距離にしても時期にしてもうまく考えられているようである。


本書の中では、箱根駅伝の常連校、新興校などの特色も紹介されるなどして、箱根駅伝ファンにも楽しめる内容となっている。筆者の箱根駅伝への愛情も感じられる。ここでの提言が活かされることを願う。

2010年10月26日火曜日

僕はガンと共に生きるために医者になった ― 肺癌医師のホームページ



2001年に肺癌を発症し、その闘病の模様をホームページに記した医師がいた。本書はそのホームページを書籍化したものだ。

本書の中にその書籍化の話も出てくる。書籍化されたものを本人が目にすることが出来たかどうかは本書からはわからない(ただ、二宮清純氏によるあとがきからは間に合わなかったと思われるように読み取れる)。だが、ホームページを通じて闘病の様子を医師として冷静に書き記すこと、そしてこの書籍化が彼にとっての最後の生きがいであったことは間違いない。

2001年というとまだブログが一般的で無かったころだ。今では当時のホームページを見ることが出来ないが、おそらくHTMLを手で書くか、簡単なHTMLエディタを使って書いていたのだろう。掲示板も設置されていたようだ。徐々に自由の効かなくなる体で大変だったと思う。

少し前にある病気のことを知る必要があり、ウェブで検索してみたことがある。あまり情報がなく、こういう時はブログだと思って検索してみたら、多くが途中で更新が止まっていた。その時の恐怖というか行き場のない怖さや悲しさは言葉では言い表せない。死の恐怖というのは医師でもあると思うのだが、家族との貴重な時間を大事にしつつ、自分の闘病や日本の医療システムについて最後まで発信し続けたそのような強い心を私も持つことがいつかは出来るのだろうか。

手術不可能な肺癌、それは死を意味する、であったことがわかった後、筆者は遺影用の写真を撮影している。ふと、自分が急に死んだら、遺影には何を使われるのだろうと考えてしまった。

2010年10月24日日曜日

走る本

昨年から走っているのだけれど、今年になって少し本格的(って言ってもまだフルマラソンも走ったこと無いんだけど)に走り始めている。

最初は「走ることについて語るときに僕の語ること」を読んだあたりから走ることに興味が芽生えて、そして「3時間台で完走するマラソン まずはウォーキングから」で実践をし始めた。

ランニング雑誌なども買うようになったり、自分でも驚くほどの熱中ぶりだ。今年に入って読んだランニング関係の本は以下の通り。

  • ゼロからのフルマラソン (祥伝社新書132) [新書] 坂本 雄次 (著) - 日テレの24時間テレビでのマラソンのトレーナーの坂本氏の本。彼はもともと陸上競技をやっていたわけではなく、30歳になってダイエットのために始めてから、東京電力の陸上部の監督になったそうだ。素人向けにフルマラソンまでの道を解説。知っていることが多いけど、励まされる。
  • 1時間走れればフルマラソンは完走できる (GAKKEN SPORTS BOOKS) [単行本] 鍋倉 賢治 (著) - 筑波大学で一般の学生向けにフルマラソン完走のための授業を行っている著者によるフルマラソン完走のためのガイド。多くの他の本と重なるところも多いけれど、大学での授業に基づくデータが参考になる。
  • 知識ゼロからのジョギング&マラソン入門 [単行本] 小出 義雄 (著) - 高橋尚子さんの指導者として知られていた小出義雄監督の著。これも他の類書と重なるところも多いが、モチベーションを高めるためには良いだろう。トレーニングコースのバリエーションを持つと良いなどというアドバイスは参考になった。ちなみに、「トレーニングはなるべくコンスタントに続けることが基本だ。理想をいえば週に6日は走りたい。また、走力を向上させていくには、少なくとも3~4日は走ったほうがいい。」とこの本では言っている。
  • マラソンは毎日走っても完走できない―「ゆっくり」「速く」「長く」で目指す42.195キロ (角川SSC新書) - 同じく小出監督の著。この本ではタイトルにあるように、ただのんべんだらりと毎日走っているよりも、しっかりとメリハリをつけて走ることの重要性を説明している。完走できないランナーの多くは、呼吸が苦しくなってではなく、脚が動かなくなって途中諦める(考えてみたら当たり前。タイムを気にしないのだから、十分休みながらいけば、呼吸が苦しくなって諦めることはない)。脚力をつけるためには、「追い込む」ことが大事である。ビルドアップ、インターバル、坂道を加えた走り。このようなものを週に2度、3度入れ、距離を走るLSDやジョギングを組み合わせ、そのように工夫して走ることで夢描くような形で完走出来る。この本は説得力ある。数多くある類書の中でもお勧め。
  • 40才からのフルマラソン完走 ~中高年のマラソン入門
    - なんと技術書で有名な技術評論社からのマラソン本。こちらは40歳以上の初心者ランナーに向けた本。書かれている内容は基本的なことが多く、ほかの本で書かれている内容とほぼ同じ。ただ、こちらは無理なく、数年かけてでもゆっくりと完走を目指すことをゴールとしているので、とにかく「無理なく」と「モチベーション維持」をテーマにしている。40歳以上からでも大丈夫ということをとにかく刷り込む (^^;;; 本。悪くないけど、私には物足りない(読む前からわかっていたので、悪口ではない)。

どれも似たような内容だったりするのだけれど、だからこそそこで繰り返し述べられていることは有効なことなのだろう。あとは実践あるのみ(何度この言葉を使ったことか)。

2010年10月17日日曜日

ドクター・ショッピング―なぜ次々と医者を変えるのか



余命半年 満ち足りた人生の終わり方」の中でも紹介されているが、自らが納得出来ない診断が下された場合に患者が行ってしまうのが、「ドクターショッピング」と言われる行為。「この医者は信用出来ない」、「もっときちんと診て欲しい」、「ほかの治療法があるはずだ」。そう思い、次の病院、ほかの医者を探し続ける。

セカンドオピニオンを得るという行為は重要だし、納得出来るまで診断や治療法を探すのも良いことだが、これが逆に患者を不幸にすることになってはならない。

本書はドクターショッピングに至る経緯や背景、原因となる医療現場の現状や患者側の問題点を解説している。主に、専門に特化しすぎるあまりほかの可能性を見れない医師、検査結果に固執しすぎて患者から出されるほかの情報を見ない医師、自分の言葉で語ることが出来ずにある症状ばかりに執着する患者。検査をすればするだけ収入になるという医療システムの問題点も浮き彫りにされる。

総合内科という診療科はその1つの解決策である。筆者はさらに身体的な問題点だけを診療するという考えから、患者が実際困っているのならば、それを解決するまで対応するという、心身医療を提案する。その意味で、心療内科が果たす役割が大きいとも言う。

本書の中で、パニック障害が例として何度か登場する。ドクターショッピングにはならなかったが、私にも思いたることがある。

高校の頃、試験になるたびに息苦しくなり、呼吸が止まるのではないかという強迫観念に襲われた。肺か心臓が悪いのではないかと思い、一度医者に行ったことがあったのだが、そこで出されたのは向精神薬。自分で薬の種類を調べて、そうとわかってからはもう医者には行かなくなった。それでも姉に「ちょっと今から寝るけど、途中で呼吸が止まっていないか見ていてくれ」とお願いしたりした。今考えると、これは立派な精神疾患だ。向精神薬を出すくらいだったら、もうちょっとちゃんと診断と治療をしてくれれば良かったのにと思うものの、当時は心療内科などは多分無かったのではないかと思う。少なくとも、私が行っていた病院には無かった。

実はこの話にはオチがある。その後、大学に入学した後のある定期試験の最中、夜中に急に胸が痛くなった。呼吸も苦しく、まともに息が出来ない。試験中だったが、あまりの苦しさに朝起きてから前と同じ病院に。医者は聴診器を胸に当て私の話を聞くと、またもや向精神薬を処方。今度ばかりは明らかに肉体的にも苦しいので、バカにすんなよと思いながらも、試験中だったため、ほかの病院に行くこともせず、どうにかやり過ごす。試験が終わった後もまったく治る気配が無いので、別の病院に。レントゲン写真をとったらすぐに入院となった。病名は自然気胸。聴診器をあてただけでもわかる状態だったようで、前の病院のいい加減さが良くわかる。これなど、本書でも書かれている医療機関側の問題、以前の病歴などをもとにした思い込みで診断してしまった例であろう。このような例が多くあると、勢い患者に医療不信を植えつけ、ドクターショッピングに向かわせることになろう。

現在の医療システムの課題と患者側の心得を知ることが出来る良書。

2010年10月5日火曜日

癌ノート~米長流 前立腺癌への最善手~

前立腺がんを告知されてからの経緯を日本将棋連盟会長である米長邦雄氏がまとめた1冊。すでにウェブ上にある「癌ノート」を元に専門医の補足説明がつけられている。



いわゆる闘病記というカテゴリに入れられるのかもしれないが、そのような深刻さはまったく感じさせない。もちろん、それは筆者が生還したという事実からの安心感から来るのかもしれないが、ほかにも前立腺がんが進行の遅いものであること、それに筆者自身の生来の陽気さにある。何度も出てくるが、闘病中であっても「笑い」を絶やさないようにしている筆者の姿勢がこの本を深刻さとは無縁なものとしている。

この本は純粋に読み物として面白い。軽いエッセイのようにも思える。これも筆者が書き慣れているからか。読み物として楽しめるが、中身は知っておいて損はない情報が詰まっている。

まず、ある程度の年齢が行ったら、PSA検査をしたほうが良い。筆者は60歳、いや50歳を超えたらと言っている。進行の遅い癌だから、自覚症状が出たときには手遅れ。PSA検査は血液検査だけで可能だ。

PSA検査の基礎 -前立腺がん早期発見のため-

あと、癌の可能性があるとわかってからも、検査まで、さらにその結果が出るまでに日数がかかることは知っておいたほうが良い。筆者の場合も、PSA検査で値が上昇してからも、しばらくは経過観察で、癌の疑いが強くなっても、生検を行うまでに3週間以上かかっている。また、骨への転移を検査するための骨シンチグラフィまでにさらに3週間。この間を不安に過ごすことになる。

良く著名人であったりすると特別に早く診察や検査をしてもらえるとう話を聞く。おそらく嘘ではないと思うが、少なくとも筆者ほどの著名人であってもそのようなことはなかったようなので、生半可な有名具合じゃダメなんだろう。一般人である我々は検査には途方も無い時間がかかること、たとえ癌の検査であっても、特別視されない可能性があることは理解しておいたほうが良い(* 進行の遅い前立腺がんだったからという可能性はあると思う)。

セカンドオピニオンの重要性や医者を知人に持つことの安心感なども筆者の実体験を読むとよく分かる。

本書、というよりも筆者の体験で参考になるもう1つの重要なポイントは、気になることはしっかりと調べ、しっかりと聞くということだ。これは前回レビューを書いた「余命半年 満ち足りた人生の終わり方」の中でも言われているのだが、医者を尊重しつつ、でもバランス良く疑い、そして自分で調べ、結論を出すということだ。

前立腺というのはご存知のとおり、性機能を司るものだ。そのため筆者にとって優先度が高かったのが、性機能が失われないか。普通、生死に関わる問題であった場合、そちらを優先させてしまい、生きながらえたあとの自分の命の質、すまりQoL (Quality of Life) まで考えが回らないということもあるだろう。特に、ある年齢まで達している場合、もういい加減そんなのは卒業してと周りにたしなめられないとも限らない。だが、自分にとって優先度が高いものは高い、簡単には諦めたくない、というものはとことん拘るべきだ。筆者のあくなき可能性の追求は見習うべきものだろう。筆者は結果、全摘出を勧められていたにも関わらず、高線量組織内照射(HDR)という放射線治療を選択することになる。

本書では告知から検査、そして治療までを解説し、終了しているが、ウェブの「癌ノート」はまだ更新が続けられている。このブログを書くために、最近の様子を読んでみたが、PSA値が若干あがっているようで、「私もいずれは再発すると思っています」と書いている。ただ、「しかしそれは90才を越えた頃でしょう。ですから私は97才以降の自分がとても心配なのです」とも。相変わらず、どこまでが本気でどこまでが冗談かがわからない。
私は性とは体力ではなく、年令でもなく、氣力でもなく、欲望でもないと思うとります。それはなんなんでしょう。この世を去るまでモテる法。これについて語り合う会を立ち上げたい。あっちもこっちも立ち上げたい。人生は楽しいです。
 燃える生命、これが最後かもと思う心を何かが突き動かしてくれるような氣がします。

癌ノート」 その44(2010年5月9日記)勇氣を から

これは本心だろう。素敵な生き方だ。見習いたい。

蛇足: Twitterもやっているようだ。これまた素敵。http://twitter.com/yonenagakunio

2010年10月4日月曜日

余命半年 満ち足りた人生の終わり方



難治がんと闘う -大阪府立成人病センターの五十年」でも書いたが、死へのカウントダウンはこの世に生を受けたときから始まっている。そのカウントダウンを自らの問題として考えなければならなくなるのが、余命宣告を受けたときだ。

この本は「緩和医療」と「死の瞬間への準備」について書かれた本だ。結論から先に言ってしまおう。この本は読んだ本が良い。この本でなくとも、死の瞬間の現実とそこに至るまで自らが考えることを知る本があるのならば、それでも良い。

ドラマのように最期に愛するものたちに別れを告げて旅立っていく。そのような終わりはまずない。それを知らされる。どんなに穏やかな死であったとしても、最期の瞬間は昏睡状態であり、その瞬間がいつ来るかは医師も家族も本人もわからない。

自分の余命が月単位であったことがわかった場合、どのような選択をとるかは本人の意思次第である。だが、その時に果たして冷静に適切な選択をすることが出来るか。選択肢を誤った場合、それは取り返しの付かないことになる。

末期ガンの場合、抗癌剤の治療は確実に本人の体力を奪い、そして自由を奪う。本来であったならば家族と最後の旅行に出かけられたり、自分の人生をゆっくりと振り返る余裕がまだあったかもしれない。だが、積極的治療を行うことを選択した場合、もう手段がなく終末治療に移行しなければならないとわかったときには、そのようなことはできないくらいに体力が落ちていることが多い。

逆もある。まだ大幅な延命や根治の可能性があり積極的治療を行うことを考えるべきなのに、それを放棄してしまう。

男性は男性ホルモン、いや遺伝的な要素というほうが良いかもしれないが、積極的治療を最後まで試みる傾向が強いという。それはわかる。おそらく私もそれを試みてしまうかもしれない。だが、果たして、もはや身動きが出来なくなってしまった最後の数週間になったときに、自分の人生の最後の瞬間として正しいことをしたと思えるだろうか。

このようなことを本書は考えさせてくれる。

本書でも書いてあるように、末期がんによって体の自由を奪われるペースは初めなだらかながらも、ある時を境に一気に加速する。積極的治療から緩和医療を中心とした終末治療に移行するタイミングを決めるのが本当に難しい。そのときには十分な時間はもうないかもしれない。また、このような話は出来れば考えたくない。

だが、だからこそ、元気な今読むほうが良い。

誰にも訪れる死。その瞬間の現実を知り、そして医療の現状を知り、普段から自分の考えを整理しておく。

本書はそのきっかけになるだろう。