2009年12月31日木曜日

沢木耕太郎 2冊 ― 「愛」という言葉を口にできなかった二人のために / 世界は「使われなかった人生」であふれている

「愛」という言葉を口にできなかった二人のために
「愛」という言葉を口にできなかった二人のために

世界は「使われなかった人生」であふれている (幻冬舎文庫)
世界は「使われなかった人生」であふれている (幻冬舎文庫)

沢木耕太郎氏の著作が好きだ。「深夜特急」やこのブログでも紹介した「バーボンストリート」。常にどこか違う視点、会社に勤めなかったという意味で一般とは違いながら、かと言ってプロのジャーナリストと言われるのにも戸惑ような、どこか茫漠としたところがある独特の視点。社会との距離感だけを見ると、冷めているようでいながら、人間への、社会への愛が感じられるその文章に引きつけられる。

この2冊は氏が「暮らしの手帖」に連載していた映画エッセイを収録したものだ。映画評と呼んでも良いのかもしれないが、氏もあとがきで書いているように、そう呼ばれることを望んでいないし、実際に映画の評論というのとは少し違う。むしろ映画を素材にして書かれたエッセイというのにふさわしいものだ。それでも、きちんと映画の紹介になっているし、映画に対する氏ならではの評価もされている。

「愛」という言葉を口にできなかった二人のために ― 「愛」という言葉を口にしたことのある人は少ないのではないだろうか。日本語で「愛する」という言葉はこそばゆいものであり、男女の間だけでなく、本来は親子間や自然や組織に対しても使えるはずの言葉がなかなか使われない。私の偏見かもしれないが、そう思う。だが、日本語という言葉の問題だけではなく、この「愛」という言葉は使うのに勇気がいる。それは、「口にできていたら、状況は大きく変わっていた」かもしれないのだが、「ひとたび実際に口に出したとすれば、『あのとき口にできていれば……』という甘美な記憶は失われることになる」ためだ。つまり、「『愛』が成就したとしても、」その「成就した『愛』は変容」し、「姿や形を変え、それが『愛』であったかどうかということすら不分明になるほど色褪せてしまうことが少なくない」からだ。これは書籍の冒頭の「『愛』という言葉を口にできなかった二人のために」という書籍タイトルと同じエッセイの中に書かれていることだが、まったくそう思う。こう書いている氏のエッセイ自身が「甘美」なトーンで覆われている。こちらの書籍では、このように「愛」という言葉を口にできない二人が登場する映画が紹介される。

世界は「使われなかった人生」であふれている ― 「あの時、XXXだったら」と考えることは多いだろう。人生の分岐点において、ある選択をしたために今の自分がいるのだが、別の選択をしたらどうなっていただろうか。このような選択における別の選択肢は「ありえたかもしれない人生」と「使われなかった人生」になる。似ているが、氏はこの2つは違うと本書の中で言う。
一見、「使われなかった人生」は「ありえたかもしれない人生」とよく似ているように思える。しかし、「使われなかった人生」と「ありえたかもしれない人生」とのあいだには微妙な違いがある。「ありえたかもしれない人生」には、もう届かない、だから夢を見るしかない遠さがあるが、「使われなかった人生」には、具体的な可能性があったと思われる近さがある。

実際のそれを選択できる資格もあったのだが、それを単に選ばなかっただけというのが「使われなかった人生」なのだが、多くの人にもある、このような「使われなかった人生」に関係する映画が紹介されているのが本書だ。

この2冊、どちらも大変素晴らしいエッセイだ。

ただ、真の映画評ではないが、映画の紹介はもちろんされていて、核心部分こそぼかしてはいるものの、エッセイを読めば映画のストーリーはだいぶわかってしまう。それは当たり前ではあるが、氏の手にかかるとどの映画もとても素敵に思え、観てしまいたくなるので、ストーリーがわかってしまうことだけが残念になる。

来年はもっと映画を観てみようと思わせた素敵な2冊。