2007年7月29日日曜日

職場はなぜ壊れるのか―産業医が見た人間関係の病理

職場はなぜ壊れるのか? それは壊す人がいるから。私から言わせればそうだ。

モラルハラスメントやパワーハラスメント、セクシャルハラスメントにジェンダーハラスメント。すべてのハラスメントは相手がどう思うかで判断される。それはそうだが、誰からもハラスメントだと思われる人がいる。本人に言っても気づかない。気づいていても、開き直られる。逆ギレされる。実際にはそのようなケースも多い。

職場はなぜ壊れるのか―産業医が見た人間関係の病理
荒井 千暁
4480063463


本書では、成果主義の功罪を説く。前半ではいろいろなケースを取り上げている。中には少し極端かと思うものもあるが、それは私が世間知らずなだけで、現実はこの通りなのかもしれない。ただし、成果主義に対する代案を示してはいない。産業医としてその立場にないからだ。

私は、もっと社員や中間管理職が自分たちの問題として捉え、形骸化しないように改善していくことで、成果主義は再び生き返るのではないかと思う。ただし、関係者全員が強い意志でサポートすることが条件だ。もしそのような覚悟がないのならば、導入すべきではない。一番避けるべきことは、機能していないルールにも関わらず、見てみぬ振りをすることだろう。

2007年7月27日金曜日

鞍馬山

信じられないくらいに遅くなってしまったのだが、4月末に京都に行った際に、鞍馬山に行った。そのときの写真を公開しておく。

鞍馬山


ここはお勧め。義経ファンでなくても行ってみる価値あり。高低さが結構あるので、良いトレーニングにもなる。

今年12月までは百の義経展というのが開催されている(もともとは2005年末までだったのが好評につき延期されている)。これもお勧め。ここでだけで販売されている「百の義経」という書籍は展示の内容が書籍化されているだけなのだけれど、これもお勧め。義経に関する書籍は多くあれど、違った視点での義経像が解説されている。また、東北の義経研究者が作成したという、義経伝説がある場所を示した日本地図も貴重。もちろん、両方とも購入してある。

今度、また行ってみたい。

2007年7月26日木曜日

時の呪縛から解き放たれ

なんのことかと思うかもしれないが、少し思うところがあって、腕時計をつけないでここ数日過ごしている。

最初は単に腕時計を忘れただけだったのだが、妙に心地よかったので、腕時計の無い生活を続けている。

こんなことを言うと、時計メーカーへの営業妨害かもしれないが、腕時計が必要なケースはいまやほとんどない。普段、デスクワークしているときは、PCを見れば良いし、打ち合わせの時間になれば、Googleカレンダーが知らせてくれる。外出時には携帯を見れば良い。

実は、ついこの間までは機械式腕時計のムーブメントが動く感触が好きで、雨が強い日以外は、その機械式腕時計を常に身に付けていた。意味も無く、右手の指にからめて、少し動かしてみる。ムーブメントがコロコロと動くのが、まるで生物の息吹のように感じられる。味気の無いクォーツ時計にはない躍動が感じられたものだ。

今でも、機械式腕時計は好きだ。ただ、あえて普段の自分と違うことをしてみよう。少し腕時計の無い生活を続けてみようかと思う。

きれいごと

どうか、あなた自身を許してあげて下さい。

はてなブックマークで見つけたが、あまりにも最近、私と友人で交わした会話に似ていて驚いた。

 『SWAN SONG』の結末近く、あまりにも暗く陰惨な地獄をくぐり抜けたあと、主人公の尼子司はこう呟く。

 「醜くても、愚かでも、誰だって人間は素晴らしいです。幸福じゃなくっても、間違いだらけだとしても、人の一生は素晴らしいです」と。

 これこそ、『SWAN SONG』一編を貫くテーマである。ひとの一生の価値は、成功したとかしないとか、幸福だとか不幸だとか、そんなことで決まるわけではないということ。

 しかし、司の恋人柚香は、そんなかれの言葉をあっさりと否定する。「そんな、きれい事なんか聞きたくないです」と彼女は言う。

私の友人も「そんなきれいごとは聞きたくない」と言った。私が友人に対して、「今まで生きてきたことはすべて糧になって、今のそして将来のお前のプラスになる。恥じることは何も無い」と話したときのことだ。友人は「お前は仕事を愛し、仕事に愛されているからそういうことが言えるんだ」と言う。そんなことはない。私だって嫌なことはたくさんあるし、正直選択を誤ったと思うことだってたくさんあった。だが、私はすべて将来の自分にプラスに働くと信じている。消したい過去だって、いつかは何らかの形で活かされる。

オプティミスト。根拠の特に無い楽観主義者だ。ただ、今の状況を楽しむことが現状を打開することだと信じている。この「どうか、あなた自身を許してあげて下さい。」に書かれているのは、楽しむことができないまでの不幸な状況に陥った人の話だと思うので、もしかしたら私が想定している範囲外かもしれない。だが、私の場合は、どんな状況もフィールドスタディだと思えば、楽しむことができた。

友人には次のようなメールを送った。

Steve JobsがStanfordの卒業式典で "You can't connect the dots looking forward; you can only connect them looking backwards. So you have to trust that the dots will somehow connect in your future." と言っているように、自身の得た経験というのはそのときにはわからなくても、後になって繋がってきて何かを生み出すものだと思う。

この言葉がどこまで友人に届いたかはわからない。

ところで、「SWAN SONG」って知らなかった。小説かと思っていたが、ゲームらしい。Amazonで見てみると、18禁となっている。このサイトに詳しく内容が書かれているが、これを見ると性的表現のためにアダルト向けとされたわけでもないようだ。こんな業界で長年働いていながら、実はゲームはほとんどしない。だが、これはちょっとやってみたくなった。

新・UFO入門

知っている人は知っているが、私はいわゆる「とんでも」系の話が好きだ。特に、UFOネタを愛してやまない。エリア51だとか、ロズウェル事件だとかだと、今でも身を乗り出して聞き入ってしまう。だが、それはそれらを盲目的に信じているわけではない。どちらかというと逆だ。そのような面白いネタをネタとして楽しんでいる。つまり、と学会と同じノリだ。

したがって、本書を書店で見たとき、まっさきに購入を決めたのは言うまでもない。

新・UFO入門―日本人は、なぜUFOを見なくなったのか
唐沢 俊一
4344980352

これはUFOブームを支えた人や団体を社会学的に分析した良書だ。詳しいと思っていた私でも知らない団体や人物が多く出てきた。特に、60年代までのことについてはほとんど知らなかった。これを読むと、いかに当初はUFOを近未来に起こりうる何かの前兆として、さらに極めて楽観的に捕らえていることがわかる。

残念なのが、最近はUFOに関するニュースが乏しいこと。テレビでもほとんど見かけないし、見たとしてもパロディとしてはじめから開き直ってしまっているものが多い。パロディというのは、仕掛ける側はあくまでもまじめに提供しないとダメだ。また、出てくる情報も陳腐化していて、真新しいものはほとんど無い。UFOマニアとしては極めて不幸な日々が続いている。

ところで、本書はネット上の文章を盗作したことでも話題になってしまっている。なかなかの良書だっただけに残念だ。

2007年7月25日水曜日

もしも義経にケータイがあったなら

知っている人は知っていると思うが、私は義経の大ファンだ。もちろん大河ドラマはすべて見た。常盤御前が幼い牛若を鞍馬に預けに行くシーンや壇ノ浦の決戦の回はビデオに撮ってあり、今でもたまに見ている。

もしも義経にケータイがあったなら
鈴木 輝一郎
4106101246


義経のことを書いた書籍はたくさんある(そのうちかなりの割合を私は買っていると思う)が、この本はその中でもちょっと異色の一冊だ。義経や頼朝といった武将や後白河法皇などの行動を現代の人事や経営戦略のケーススタディとして取り上げている。ランチェスター戦略の観点から義経の奇策と呼ばれた戦を分析したり、梶原景時との抗争を社内における派閥争いになぞらえてみたり。

判官びいきという言葉があるように、日本人はみな義経が好きだ(と言い切ってみる)。

義経の時代の歴史を振り返りながら、ビジネスの常識(といわれているもの)を知るのも良いだろう。

会社を辞めるのは怖くない

古くからの友人、横山哲也氏のところでも紹介されている1冊。そのときにすぐに読んでいたのだが、ここに書くのがちょっと遅くなってしまった。

会社を辞めるのは怖くない
江上 剛
4344980255


このブログでも何回か書いていると思うが、私は会社との関係は契約だと考えているので、会社を辞めることを厭わない。もちろん、仕事に対する情熱は人一倍あるし、仕事を通じての社会貢献や自己実現というものも大事だと思う。ただし、会社がいつの間にか自分の識別子(ID)のすべてとなってしまうのはその人間にとって不幸だ。会社へのロイヤリティ(忠誠)というのは自分への足かせになってしまうこともあるので、注意が必要だ。

この本に書いてあることはいつも自分の考えていることなので、なるほどなるほどという感じ。

「恨みは捨てて潔く飛び立とう」と「郷に入っては郷に従え」は特に参考になる。

 不満や恨みを残しながら辞めると、過去に引きずられてしまう。こうなると、さっそうと前に進んでいけなくなる。残念ながら、退職後、多くの人が吹っ切れなくて、自縄自縛に陥っています。遺恨を残して死ぬと、この世に化けて出るようになる。成仏できないのではないでしょうか。
 次のキャリアを求めなければならない時、最も必要とするものは、自分が歩んできたサラリーマン生活に対しての自信なのです。僕自身、そういう心構えを持って辞めましたし、現在もそう思っています。

前の会社にまったく不満が無ければ、辞めていないのだから、ついつい前の職場の不満が出てしまう。極力それは言わないつもりの私でもたまに出てしまうことがある。気をつけなければ。

 逆に高い地位にいた人でも頭の切り替えができないと、次の職場に行っても「オレの部下は何人いるんだ」「なんだ、ここは。無礼なことばかり言って」とブツブツ言っている。気持ちの決着がついていない。そんな人には誰も近づきません。いい再就職先とも出会えないわけです。

新しい職場が前の職場よりも優れているとは限らない。新しい職場のカルチャーやルールがおかしいことも多いだろう。だが、それをいきなり否定するのではなく、まずはそこに身をおいて、新しいやり方を学んでみること。そこから見つかる何かがあるだろう。ただし、新しい職場が間違っていることもあるので、染まってしまってはダメだ。だが、前の職場の意識を一度捨てて、透明な気持ちで接してみてはどうだろう。まずはインナーサークルに飛び込んでみよう。

私は自分で言うのもなんだが、環境順応性が結構高い。それが必ずしも常に良いことばかりではないのだが、こと転職という点においてはプラスに作用しているようだ。ただし、どのような環境においても、自分を見失わないようにすることは心がけている。

ところで、横山氏は次のように書いている。

IT業界は、長時間労働で悪名が高くなったため、日米ともに人気急下降中です。
労働環境を改善するには「自分の知的能力を磨け(プチブルになれ)」と前にWindows Server Worldのコラムで書いたみたんですが、それだけではだめかも。

「気に入らなければすぐ辞める」人が *大多数* にならないと事情は変わらないような気がしてきた。

別のコラムで「簡単に仕事を辞めるな」と書いたけど、今は揺らいでいます。

若者はなぜ3年で辞めるのか? 年功序列が奪う日本の未来」で書かれているような年功序列+終身雇用により、能力があり、実績も残しているにも関わらず、疲弊した会社側のルールにより正当な評価が与えられていない場合には、「すぐ辞めて」全然かまわないと思う。

ただし、一方で横山氏の言う「簡単に仕事を辞めるな」というのも良くわかる。私の元上司が新卒のころの私には「仕事を選んじゃだめだ」と言っていたのと同じかと思う。つまらないように思えても、そこから学べることは多くある。

結局、飛び出すかどうかは、どこで見極めるかどうかであって、それは自分しか判断できないものではあるだろう。

2007年7月24日火曜日

枠をはめているのは自分

友人が次のような話をしてくれた。

金魚は水槽の中に枠を入れて飼うと良いらしい。自分の体より少し大きい枠に入れ続けると、大きくなるのだと。

金魚が小さい時は、すごい小さい枠に入れる。金魚はその枠を目標に成長する。

体が大きくなり、狭くなってきたら、少し大きい枠をはめる。

これを繰り返していくことで、金魚は大きくなる。

これを聞いたとき、これはコーチングに使えるなと思った。確実に成果をあげられるチャレンジを与え、難易度を少しずつ上げる。

しかし、その次の瞬間、コーチングのように他人に関与する場合だけの問題ではないことに気づいた。そもそも人間が成長をとめてしまうのは、枠を外せなくなっているからではないか。

もともと水槽などなく、大海があるのみ。ただ、自分で自分の周りに枠を作る。そのほうが生きやすいから。順調に成長している間は、自分でその枠を大きいものに変える。これが出来たならば、次はこれをゴールにしようというように。しかし、いつか枠を変えることを止めてしまう。そのほうが楽だから。本当は枠など無い。

たとえば、自分の所属部署、会社、業界などなど、枠は作ろうと思えばいくらでも作れる。その枠は本来いつか外すべきもの。それがいつの間にか言い訳の材料になる。

暑苦しいと言われても仕方ない。だけど、こんな風に考える自分もいる。

2007年7月21日土曜日

最後だとわかっていたなら - Tommow Never Comes

時間つぶしに書店に入って、平積みになっているこの本を見つけた。立ち読みで読み終えてしまうほどの短い詩。インターネットでも公開されているらしい。

だが、何故か買ってしまった。写真が素敵だったからかもしれない。

最後だとわかっていたなら
最後だとわかっていたなら

オリジナルはNorma Cornett Marekの書いたTomorrow Never Comes。Heart Whispersというサイトで読める

グーグルで検索すれば、日本語訳も見つかるだろう。

好き嫌いはあるかもしれないが、是非読んでみて欲しい。

2007年7月20日金曜日

竹内まりや Denim

村上龍が以前ビートルズについて語った際、流行歌は常に人々にその時代の記憶をよみがえらせると発言をしていた。「欧米にはビートルズがいた。自分の若いときには日本にはそのようなアーチストが存在しなかったが、今はユーミンやサザンがいる」というような内容だったと記憶している(ユーミンやサザンというアーチスト名から分かるように、1980年代後半か1990年代前半の話だ)。

音楽は鮮明に過去を思い出させる。

時間だけは無限にあるものの、有り余るエネルギーの吐き出し場所を見つけられずに、仲間で集まっては青臭い議論をした大学時代。Long Hot Summer(Style Council)の気だるいムードが妙にマッチした。

Introducing the Style Council
The Style Council
B00000747N

大学3年の春休みに、くじ運の悪い私は体育の単位をとるために、日光までスケート合宿に行かねばならなかった。当時すでに、父は先の長くない病気だったが、合宿に来る前には、まだ会社に通っていた(実はこれは奇跡的なことなのだが)。日光での約1週間、屋外スケート場では、浜田省吾のJ.BOYからの曲が繰り返し流れる。合宿から帰ると、父が緊急入院したという。病院に駆けつけると、状況はそんなに悪くなく、普通に会話できた。合宿の様子などを話したと思う。変調を起こしたのは、そのすぐ後。意識がなくなり、10日ほどで他界した。

J.BOY
浜田省吾
B00005G7IU

就職活動の時期、自分のやりたいことがわからず、完全に迷走していた私は、シンクタンク、石油開発会社、コンピュータ会社など手当たり次第、話を聞いた。そして、その中の数社に応募した。今考えると、自分でもよくわからないのだが、なぜかその中にTBSがあった。もしかしたら、応募はしなかったのかもしれない。説明会には行ったはずだ。会社を案内してもらった際に、当時人気番組だった「ザ・ベストテン」のリハーサルで、流れていたのが、少年隊の「君だけに」。指を鳴らして始まるこの曲。このとき違う選択をしていたら、その後に違う道を歩んだことになるのだが、今でもこの曲を聴くとふと違う道を歩んだ場合の自分のことを想像してしまう。

これらは一例に過ぎないが、街角で流れていると急に過去に引き戻されてしまうような楽曲はいくつかある。

そのような曲に加わることになりそうなのが、竹内まりやのDenimだ。正確には曲ではなく、CDだが。

昨年のクリスマスにテレビで流れた曲(クリスマスは一緒に)が印象に残っていたのだが、その曲以外にも、心に染み入る曲が多い。自身の状況を重ね合わせたり、似た立場の友人を思い出させたりする歌詞。その歌詞を包み込むようなメロディ。良質のポップというのはこういうのを言うのだと思う。山下達郎は以前から良く聴いていたが、竹内まりやのほうが日本人の情に訴えるウエットなものをもっている。以前、山下達郎がある竹内まりやの曲を評して、「あれがぎりぎり」と言っていたが、山下達郎は日本人の好むウエットな部分が苦手なのだろう。

B000O76P6MDenim (通常盤)
竹内まりや Alan Jay Lerner 服部克久
ワーナーミュージック・ジャパン 2007-05-23

by G-Tools


このDenimだが、通勤時、勤務中、入浴中、ドライブ中など最近いつも聴いている。いい時期に巡り合えてよかった。

2007年7月15日日曜日

対面

昨日、帰国してすぐに、彼(亡くなった元上司)の自宅に電話した。名前を言うとすぐにわかってくれた。お通夜にも告別式にも参加できなかった無礼を詫び、できれば早くに位牌に手を合わせたいというと、いつでもどうぞという。

彼には「次回は子供の写真でも見せますよ」と約束していた。今日持っていこう。子供に「お父さんの大事な人が亡くなったんだよ。君のこともいろいろ考えていてくれた人だよ」と話した。私と子供で撮影。でも、彼とは血のつながってもいない子供の写真。迷惑じゃないだろうか。でも、約束は果たしたい。

日曜日の午前中。台風が迫っているためか、雨と風が強い。ガラガラの首都高を飛ばして、1時間半ほどで到着する。

自宅では娘さんと奥様が犬と一緒に迎えてくださった。犬はとても人懐こい。後で、教えてくれたが、彼が親しかった人はすぐにわかるのだそうだ。腕にしがみついて離れないと。確かに、犬が私の腕をしっかりとつかんでいる。

お線香をあげさせていただき、「次に来るときは、子供の写真をお見せしますと約束していたので、もし迷惑でなかったら」と言って、写真をお渡しした。喜んでいただけた。ほっとした。でも、本当は彼に生きているときに見て欲しかった。彼はなんて言っただろう。「及川さん、そっくりだね」。そんな風に言うのだろうか。独特のイントネーションで話す彼が想像できる。

写真では子供にメッセージを書いた紙を持たせていたのだが、それも喜んでいただけた。本当によかった。

息子さんにもご挨拶できた。小一時間ほどお邪魔したが、私の知らなかった家庭人としての彼の姿を知ることができた。生きているうちにもっと知りたかった。

帰路、親父の墓にも寄る。親父にも報告。

2007年7月13日金曜日

恩人との別離

朝一のミーティングを終了し、メールチェックを終わらせた後、オフィスの外のベンチで一休み。眠気が襲ってくる中、ふと、なんで今ここにいるのだろうと考えてしまう。本当なら、彼の元に駆けつけたかった。

昨夜、日本との電話会議が続き、ベッドについたのが深夜3時。寝付きかけたころに思い出した。弔電の手配をしないと。定型の文面ではなく、自分で今の気持ちを伝える文章を考えた。永遠の眠りについた彼にせめて届きますように。

亡くなったのは私の元上司。

彼とは最初の会社で一緒だった。当初、私は直属の部下でなかった。それにも関わらず、何かにつけてかわいがってもらった。今思えば、かなり自信過剰で先鋭的だった若かりしころの私。VAX NotesというLotus Notesの原型にもなったといわれる情報共有システムで、自分のシグネチャーに「Never trust over thirty」だとか「TooMuchManagementNotEnoughLeadership」だとか書いていると、少しなまりのある声で「だめだよー、及川さん。こういうのは見る人は見ているからね。直接会ったことのない人に変に先入観与えると損するよ」って注意してくれたのも彼だ。

某自動車会社のシステムのアップグレードでトラブルが生じたときも、直接関係ないにも関わらず、週末にかけつけてくれたのも彼。別に直接トラブル処理を手伝ってくれるわけでもなかったが、なぜか彼がいるだけで心強かった。

その後、縁があって、上司部下の関係になり、保土ヶ谷のオフィスに二人して転勤となった。保土ヶ谷に移った当初、毎日のように飲んだ。仕事の話ももちろんだが、家族の話、学生時代の話などいろいろな話をした。

最近、私は学生や新社会人など若い人に話をする機会も多い。話の中で引用させてもらうのも、ほとんど彼の言葉だ。「他人の心の痛みがわからないと他人の上にはたてない」。他人の上にたつかどうかは別として、「他人の心の痛みをわかる」ようにするのを心がけているのも、彼から教わった教訓だ。ただ、この年齢になっても、心がけていても、実践はできていない。そんな私を見たら、彼は「だめだなー、及川さん」って苦笑しながら注意してくれるだろうか。

「仕事を選んじゃだめだ」と言われていたのが、しばらくしたら「及川さん、仕事は選ばないと」と言われるようになった。若い私はメッセージが一環していないと憤慨したが、それが私の成長に合わせて意図的に変えていたとわかるのはしばらくしてからだった。当時はまだコーチングのような手法も今ほど一般的ではなかったと思うのだが、彼は見事にそれを実践していた。

彼とほとんど二人三脚と言って良い状況で行っていた仕事が一段落ついたころ、そう、1992年ごろだろう、私はマイクロソフトに転職しようと思った。Windows 3.0が出たか、これから出るかという時代だ。DECから転職する人間がちらほら出ていて、私も成長著しい会社に憧れた。

今から考えるとめちゃくちゃなプロセスなのだが、なぜかきちんと彼に辞めることを告げてから、転職活動をしようと思い、先に辞表を提出した。びっくりした表情で、少し預からせてくれと言う。数日経って、彼の上司(つまり、私の上司の上司)と3人で面談があり、そこでWindows NTのAlpha版の開発で米国マイクロソフトに行かないかという。この時から私の人生は大きく変わった。今のプロフェッショナルとしての私があるのは彼のこのときのカウンターオファーのおかげだ。もちろん、私はDECに残り、Windows NTのAlpha版の開発に参加した。

このプロジェクトは必ずしも順調ではなかった。まだ20代だったリーダーの私は日本にいる彼やほかのマネージャに無理難題ばかりをお願いしていた。後から、彼に言われた。「及川さんの言うことももっともなんだけど、リーダーとしてはGiven Conditionの中で最高のパフォーマンスを発揮しないとダメなんだよ」。当時の私は必ずしも、この言葉を理解できなかったが、今ならばわかる。少し、彼に近づけたのだろうか。

その後、彼は私よりも先に会社を辞めることなり、その後しばらくして、私も会社を辞めた。辞めてからは数年に1度会うくらいだったが、そのたびに私の成長を喜んでくれ、そして仕事だけでなく、私生活にまでいろいろとアドバイスをくれた。

昨年、自分のキャリアについて悩んでいたとき、相談できる人は彼しか思い浮かばなかった。「お久しぶりです。実は会社を辞めようかと思っているのですが、相談にのってもらえませんか?」とメールした。「私で良ければいつでも」とリプライをもらった次の日に、「緊急入院することになりました。ちょっと重い病気みたいです」と他人事のようなメッセージが届く。同時に「いつかまた及川さんと一緒に仕事したいです」とも書かれていた。それ以来、音信不通に。

その後、結局、会社を辞め、現在の会社に転職したのだが、彼のことはずっと気になっていた。でも本当は逆に真実を知るのが怖かったのかもしれない。連絡が来ないのが良い状況のはずがない。

彼の近況を知ったのは、5月に入って。DECの同窓会にて、彼の元上司を見つけると私はすぐ彼の状況を聞いた。そこで知らされた。

すぐに見舞いに行くことを決めた。彼に近しい人3人で。痩せてはいたが、口調は変わらず、他人への気遣いも変わらず。もう残された時間が少ない人だとは信じられなかった。また来ます。そういってその日は帰った。

後日、お礼のメールをした。本当に伝えたかったこと。

<略>
先日は突然の訪問失礼いたしました。やはり会えて良かったです。

目の前にいらっしゃるとなかなか照れて言えないのですが、Xさんの部下でなくなってからも、いつもタイミングタイミングで私はXさんの言葉を思い出していました。私は大学時代に父を亡くしていますので、私の中では父代わりのようにXさんのことを思っていたところもあるのではないかと思います。「他人の心の痛みがわからなければ他人の上には立てない」とか「早く1千万円プレーヤーになれ」とか、Xさんには仕事の面だけでなく、人生の先輩として学ぶところが多く、単に会社の上司というだけでなく、本当に多くのことを教えていただきました。
<略>

普段、私は自分の業績をひけらかすことはほとんどしない。そもそも業績といえるようなものもない。だが、このメールでは直前にあったイベントが大成功だったこと、そこで私がゼネラルセッションの最後を締めたことなどを伝えた。成長した私を少しでも知ってもらいたくて。彼の言葉や考えが少しだけど、きちんと私が継承していることをわかって欲しくて。

彼から短い返事が来た。

新病棟/病室に移動しました。XX病棟/XXXX号室。個室です。
いつでもどうぞ。私ももっとお話ししたかったです。
xxxx …still alive…

それから10日くらい経ったころ、今度は1人でお見舞いに行った。すでに起きているのは辛いのか、寝たまま話をする。相談したかったこと、伝えたかったことを言葉を選びながら話した。彼もいろいろと親身になって答えてくれる。ふと気づくと、もう1時間を過ぎている。さすがにもう帰らないと。

帰り際、彼と握手をした。「また来ます」。「及川さん、本当にありがとうね」。彼は泣いていた。私も号泣してしまった。病室を出るのが辛かったが、「失礼します」と言って、病室を出た。これが思えば、彼との最後だった。

出張から帰国したら、真っ先にお見舞いに行く予定だった。それがお別れの式にも参加できないなんて。でも、彼ならきっと言うだろう「及川さん、無理しなくていいよ。別に急がないから、いつか来てください」。

彼に会えたら言うつもりだ。どんなに私が感謝しているか。本当は彼がいなくなり不安で仕方ないが、そんなそぶりを見せたら、きっと怒られてしまうだろう。

彼に言いたい。本当にありがとうございました。どうぞ安らかにお眠りください。

2007年7月8日日曜日

手塚治虫展@Asian Art Museum

サンフランシスコにAsian Art Museumというものがあり、そこで手塚治虫展をやっていることがわかってので、行ってみた。

場所はCivic Center。

外から眺めた感じはこんな感じ。アメリカの都市の建物に手塚治虫の代表作がでかでかと表示されているのは感慨深い。





入場料は12ドル。

中は当然のことながら、撮影禁止なので、写真は無い。

手塚や手塚の作品の紹介がされているのだが、知らない作品も多かったりして、じっくり1つ1つの解説を読んでしまった。特に、青年を対象とした劇画部門のものは知らなかったのだが、興味をひくものも多かった。今度、読んでみようかと思う。

また、ビデオも上映されており、手塚の生涯などがわかる。こちらは日本語の解説に字幕。

2Fではパフォーマンスが行われているようで、私が行ったときには、バイオリンとチェロでアニメソングをクラシック調にアレンジして演奏していた。ここは撮影OK。



夕方に行ってしまったので、あまり時間がなかったが、今度また面白い展示がされているようであれば、来てみたいと思った。



Asian Art Museum