2022年5月1日日曜日

母の幼少時の満州からの引き揚げ記録

母の遺品を整理していたら、私が小学生の頃に学校の課題で書いた、母の戦争体験の記録が出てきた。親から戦争体験を聞き取り、それを作文にして提出するという課題だったと思う。

次のような作文だった。

昭和十九年四月

 その当時、母は祖父(軍人)の転勤のため、東京から満州新京へ渡った。 そのころ東京は、だんだん空しゅう がひどくなり、物資不足し、欲しがりません勝つまでは、とぜいたくは敵だ、と、がまんがまんの毎日でした。それも日本が勝つと信じていたからです。

 満州は東京とちがって広々とした 土地の中でのんびりしていました。 戦争なんてしているなんてうそみた いな毎日がつづきました。 でもその年の終わりごろには学校でみな工場 へつれていかれて、風船バクダン作りなどやらされた。

昭和二十年八月

 ソ連と戦争がはじまり、母たちは着の身着の日本へ帰ろうと無がい車に乗り、南に向いました。 と中何回ものソ連のしゅうげきにあい その都度草むらや車の下にひなんし ました。でも三十九度線をこえることができずに北朝鮮の「チンナンボ」 というところで終戦になってしまいました。

 それから昭和二十二年の十月までソ連兵にこきつかわれて、日本に帰る日を待っていました。家もなく倉庫やお寺に分かれてくらしました。 倉庫の中は土で、それにゴザをしい て、ためーじょうに三人ぐらいの くうかんしかありません。いろんな 家族がいっしょなので御手洗いもなく、夜などはソ連兵がおそってきま した。とてもこわかった。

 その時、よくみんなでいつ日本に帰れる かと、「コックリさん」をやってなぐさめあいました。山の御寺にいたときは頂上から海が見えるので船が見えると、日本の船がむかえに来たのかといつも心をはずませていました。それから一年くらいたったとき船が来ましたが、働き手がいる家は残されました。それで母達は歩いて南朝鮮まで行くことにしました。山をこえ、夜川を渡たり、と中何回も野宿 してやっと南朝鮮の収容所へ着きました。 それまでには、病人が死んだり、生まれ た赤ちゃんは穴をほってうめたり、年をとったおばあちゃんは置いて行ったり、 国境をこえるときは若い娘がソ連兵についていかれたり、ずいぶんぎせい者かありました。

 その収容所の生活もきびしく食べ物は一日二回とうもろこしのゆでたのがコップ半分でした。

昭和二十二年十月ごろ

 やっと船に乗るじゅんばんが来て貸物船に乗り、二週間くらいかかって佐世保に着きました。

 祖父はソ連兵につかまりほりょになりました。

2022年4月27日水曜日

花は咲く わたしは何を残しただろう

(2013年4月末のFacebookの投稿より転記)

母が認知症であることが発覚してからしばらくがたつ。幸いなことに薬で進行が抑えられているのか、日常生活はどうにかこなせている。


数年前(発症前だ)に家族の反対を押し切って、勝手に南房総の自立生活型ホームに入居してしまったのだが、施設のサポートがしっかりしていて、近くに有名な亀田病院もあるので、遠方にいてもそんなには心配な状況ではない。ただ、本人も寂しがるし、病気のことも考えて、1ヶ月に1度は顔を見に行くようにしている。

今回は2ヶ月ぶりくらいになってしまったのだが、ゴールデンウィークということもあり、姉の家に2日ほど泊まってもらっていた。

今日は家(南房総)に送る日。

朝、娘が話しかけてきた。

「リー(娘の名前。自分のことをこう呼ぶ)、明日休みだし、今日予定していた生徒会の集まりが無くなったみたいだから、一緒に行ってもいいよ」

「本当? それは助かる」

「うん。じゃあ、おばあちゃんが退屈しないように、話を考えておかなきゃ」

娘は母が同じことをずっと質問したりするのを知っているので、車内で母が心配しないで過ごせるように話をいくつか用意しておいてくれた。

思えば、親子ということもあるのか、私は母が同じことを繰り返し話してしまうのが仕方ないことと頭では理解していても、ついつい冷たく接してしまう。来るときの車の中でも、私は「ああ」とか「うん」とか一言しか返事しないことが多かった。


不思議な行動をすることが多くなってしまった母。

今日もどこかで摘んだという花を大事に持ってきていた。お世辞にも綺麗とはいえない、どこでもらったのかわからないラップに、どこにでも咲いていそうな花を大事に包んでいた。

「ほら、綺麗でしょう。お家に飾ろうと思って」

なんと返事して良いかわからないまま運転を続ける私を横に娘が話した。

「そうそう、おばあちゃん、お花好きだよね。調布に住んでいたときも、多摩川まで行って、たくさんお花摘んできていたもん」

母はもう調布に住んでいたことも覚えていない。それでも、「そうだったかしらねぇ」とどこに住んでいたかなどはどうでも良いことのように微笑んでいる。

私1人だったら、こんなに暖かい言葉はかけられなかった。昔から花が好きだった母のことなど思い出せなかった。

娘は母が歩くときには常に腕を組んでくれた。母も孫にそんなことされるのが嬉しいのか、わざと大げさに抱きつくように体を委ねている。


途中に父の墓に寄ったりしたため、長旅になった。夕方が近くなると、母はいろいろと心配しだす。ホームにはちゃんと連絡してあるのか、夕飯はどうすれば良いのか、おみやげは買ったのか。大丈夫だよと言っても、何度も同じことを聞く。

娘がiPhoneをいじって、何かを聞いている。「聞くんだったら、カーステレオから流して良いよ」と言ったら、「ううん。待って、今探しているの」と言う。しばらくして、カーステレオにつないで流し始めた。

「何これ?」

「おばあちゃんが好きだって言って、歌っていた歌」

東京の滞在中、母がずっと口ずさんでいた歌があった。母は歌が好きで良く歌を歌う。10年くらい前までまったくの健康体であったときには年末に第9を歌っていた(1000人くらい市民コーラスが参加できるイベントがある)。脳に良いと思って、昨年末には姉と3人でカラオケにも行った。

そんな母が東京滞在中に、今までに母の口からは聞いたことの無い歌を歌っていたので、なんの歌だか気になってはいた。

花は 花は 花は咲く わたしは何を残しただろう 

こんな歌詞の歌だ。昨夜、これが復興支援ソング「花は咲く」であることを知った。夕方になり、母の心が不安でいっぱいになったのを見て、娘は母が安心するようにと探してかけてくれたのだ。

車内にiPhoneからの歌声と母の声が響く。歌詞をところどころ間違えながら、でも次の部分だけはひときわ大きい声で歌う。

花は 花は 花は咲く わたしは何を残しただろう 


母を無事自宅(ホーム)に送り届けて、真っ暗な山道を帰る中、娘に言った。

「優しい心を持って生まれてきてくれて、ありがとう」

直接は言えなかったけれど、もう眠りに入っただろう母にも言った。ありがとう。

復興支援ソング「花は咲く」 

http://www.nhk.or.jp/ashita/themesong/

2022年4月18日月曜日

母のメモ

母の施設で遺品を整理していたら、古い日記などに紛れて、手書きのメモが見つかった。母はメモ魔だったため、色んなことをメモに残していた。普通の人だったら用が終わったら捨てているようなメモも残されていた。これはこれで母の普段の生活が垣間見れて、亡くなった今となっては感慨深かったり、改めて悲しくなったりする。

そんな中、いつ書いたのかわからないが、自分の葬式に関するメモが見つかった。


葬儀に関する件
    できるだけ簡素に

◎無宗教 花いっぱい
    祭壇花のみ    音楽を静かにながす

認知症が進んだ状況で書ける文章ではないので、少なくとも6年以上前だろう。いつ書いたのか。施設でエンディングノートを書くように勧められたりしたのだろうか。

これを見つけて、内容を把握した瞬間は「こんなの見つかるところに置いておいてくれるか、事前に話してくれないとわからないよね」と姉と笑っていたのだが、「でも、良かった。おふくろの希望通りの葬式にできたよね」と言い始めた瞬間に自分でも驚くくらいに感情が溢れ出てきて、号泣してしまった。

父は仏教で葬式をあげた。しかし、母は若い頃にキリスト教の教会に行っていて、父ともその集まりで知り合った。10年くらい前も銀座教会に行ったりしていた。

もしかしたら、父と同じ仏教が良いのではないか。いや、父と知り合うきっかけでもあり、最近(10年以上前だが)にはまたクリスマスに教会に行くようになっていたことを考えると、キリスト教が良いのではないか。こんなことも考え、母の葬式を無宗教であげることに迷いはあった。

母も無宗教を希望していた。それを知った時に、安堵のあまり感情が溢れた。

バイオリンとキーボードの二重奏で静かに音楽も流した。

良かった、本当に。

2022年4月9日土曜日

母が亡くなった。享年91歳。


私は問題児だった。

幼稚園では喧嘩して友達の耳を齧ったり、怒られたら屋根に登り降りてこない。それでも、母が選んだその幼稚園は情操教育を行うことをモットーにし、子供の個性を尊重してくれていたため、厳しく怒られた覚えはない。

しかし、小学校に入ると、すぐに様々な問題を起こした。授業がつまらずに、すぐに飽きてしまうのだ。そんなある日、覚えたての口笛を吹きたくなり、授業中にも関わらず、吹いてしまう。先生に廊下に立っていろと言われて立つものの、いつまで立っても中に入れて貰えなかったので、あろうことかそのまま家に帰ってしまった。

授業をしているであるべき時間に息子が帰って来たのを見て、母がなんと言ったのかは覚えていない。私もどんな言い訳をしたのだろうか。いずれにしろ、母に連れられて学校に戻った私はしれっとそのまま授業に復帰した。

他にもガキ大将のような友達に脅迫状を送ったこともあった。小学校3年生の時だ。

ある朝、同級生と学校に向かっていると、母が学校から戻ってくるところとすれ違った。母は私のことで学校に呼び出されていたのだ。「卓也、◯◯君に変な葉書送ったか?」と聞く。私は脅迫状を送ったことなどすっかり忘れていたのだが、その一言で思い出し、「送った」と答えると、母は「一人でやったのか?」と聞く。同級生5人くらいとやったので、そう伝えると、「先生は卓也が一人でやったと言っている。こんなことをする子は及川君ぐらいしかいないと言われた。ちょっと先生に話してくる」と言い残して、また学校に戻った。

その日の朝会で、先生は脅迫状が送られたことをクラスで話し、誰がやったのかと聞く。私と共犯の同級生が手を挙げた。先生は少し驚いたようだった。我々は酷く怒られ、確か被害児童の家に謝りに行ったのではないかと記憶している。

単独犯でなく、共犯者がいることで罪が無くなるわけでもない。私が一人でやったのではないと知った母が凄い剣幕で学校に戻って行ったのを頼もしく思うとともに、不思議に思ったように記憶している。きっと、一方的に私だけが問題児であるように扱われるのを母は憤慨したのだろう。

他にも数えればキリがないほど、私は問題を起こしていた。今だったら、きっとなんかの病名が付けられていることと思う。

母はそんな私を暖かく見守っていてくれた。母は幼児教育の専門家だったこともあり、そんな人の子供がなぜ?と言われていたようだ。悔しかったと後から私に話してくれた。でも、私を頭ごなしに叱ることは無かった。

ある時、私がまた何か問題を起こして母が学校から呼び出された。さすがに怒られるだろうと思っていたら、少し遠くにある公園に遊びに行こうと言う。交通公園と呼ばれていた公園だったと思う。自転車で二人して出かけ、ひとしきり遊んで帰る道で、「卓也、もう少しお友達と仲良くしようね。みんなと一緒に行動できるのも大事なんだよ」と優しく諭してくれた。このあたりから、私も少しずつ集団生活に馴染んでいった。もっとも、小学校6年の時に通っていた進学塾の先生からも「この子はとんでもない大人になりますよ」と言われたので、小6の段階でも普通の子とはだいぶ違っていたのだと思う。

こんなふうに、学校から問題児だ、異常だと言われながらも、ずっと守り続けてくれた母だった。


2歳の時に大病をした。

敗血症という病気だ。当時だと乳児の死亡率が7割に達していたらしい。5歳上の姉は朝起きて、全身発疹だらけで高熱で苦しむ私を見て、助からないんじゃないか、幸が薄い子だと思っていたそうだ(7歳でそんなことを思うのか疑問なので、後年の創作ではないかとも思う)。

幸にして、数ヶ月の入院を経て退院したが、その後も病気続きだった。

小学校2年生の時には急性腎炎。2ヶ月くらい学校を休んだ。

中学校に入ると、鉄欠乏性貧血。学校こそ休まなかったものの、しばらく体育の授業は見学となった。

病弱だったこともあり、母は私に過保護だった。と同時に、健康オタクとなった。健康食品に懲り、ありとあらゆるものを摂取させられた。

紅茶キノコ、良くわからない水、その他にも名前も覚えていないものたくさん。この良くわからない水はとても不味く、そのままではとても飲めない。そこで、まず無塩の梅干しを口に入れさせられ、そこで口が麻痺している間に液体を飲み込むように言われた。それでも不味いものは不味い。しかし、繰り返しているうちに慣れてきた。

大人になってから、罰ゲームなどで濃い青汁を飲まされることがあるが、大概のものは問題なく飲める。躊躇なく、ごくごくと飲む。それもこれも、小さい頃に口にするのがもっと辛いものをいくつも飲み食べしてきたからだ。

母のこの試みが功を奏したのか、体が大きくなるにつれて、病気もしなくなった。


母は日本人離れした顔立ちをしていた。

子供としてずっと接していたので、人に言われるまで気づくことは無かったのだが、鼻は鉤鼻で、緑や茶が混ざった目の色をしている。

中学に入り部活の合宿で駒ヶ根に向かう時のこと、過保護だった母親は部の一堂が乗る列車と同じ列車で駒ヶ根にある親戚を訪ねることにした。わざわざ我々の車両まで訪ねてきて、顧問の先生に挨拶をしたのだが、中学生にもなって親が同伴するようで恥ずかしかった私は逃げてしまった。すると、しばらくしてから顧問の先生が近寄ってきて言った。「いくら親が日本人っぽくないからと言って、産んでくれた親を恥ずかしいと思うとは何事だ」と。自分の母親が日本人っぽくないと思ったことは一度も無かった私はびっくりした。

私は鼻はでかいが鉤鼻ではない。目の色は少しだけ茶色が混ざっていると言われることがある。母の体の一部は私に受け継がれているのだろうか。


母は終戦を満州で迎えた。ロシア(ソ連)兵から逃げるようにして、命からがら北緯38度戦を越えて帰国した。関東軍の大将だった祖父はシベリアに抑留され、帰国後すぐにGHQに連れて行かれた。

このような話は幼い頃から母に聞かされていたが、何度も聞かされているうちに飽きて、適当に聞いてしまっていたので、実は正確には覚えていない。母の話も系統だって話されたものではないので、ところどころに抜けがある。

東日本大震災後、私は福島以北の東北に初めて足を踏み入れたが、実は岩手や宮城は父と母の思い出の土地だ。父は岩手県花巻の出身で、母とは仙台かどこかで出会ったはずだ。母の生まれはどこだろう。聞いたはずだが忘れてしまった。父は私が学生の頃に亡くなっている。

晩年、母は施設に入っていた。その施設の人が入居者の思い出を聞き取り、文章にしてくれている。しかし、すでにその時、認知症が進んでしまっていた母は細かいことは話せなかったようだ。

元気なうちにもっと話を聞けば良かったと後悔している。


2012年に、「プロフェッショナル 仕事の流儀」というNHKの番組に出る機会を得た。企画自体は一年前の2011年から始まっている。

実は、この話を会社の広報から最初聞いた時、事の深刻さも理解しないままに軽く承諾してしまったのだが、その後、仲が良かったマーケティングの人から「卓也さん、聞いたよ。プロフェッショナルの取材受けるんだって。あれ大変だよ」と言われ、急に心配になった。そのマーケティングの同僚曰く、出演後は外を歩いていても声を掛けられるようになり、日常の生活にも支障をきたすらしい(実際にはそんなことは無かった)。

当時は頻繁に記憶を無くすほど飲み歩いていたこともあり、そんな衆人環視されるような生活はまっぴらだと、広報に「この間の話、やっぱり断りたいんだけど」と話したが、今さら断るなと4人くらいに囲まれて説得された。

この時、母のことを考えた。

母は私が取材を受けた雑誌や新聞の記事を、それこそ宝物のように保存していた。1990年代中頃、インプレスのDOS/Vパワーレポートという雑誌に書いたのが私の雑誌デビューだ。その雑誌を母は自分で購入し、いつでも手に取れる書棚に入れていた。他にも取材を受けた雑誌など、母は大切に持っていた。

東日本大震災が発生した2011年、震災復興活動をしながら、母を病院に連れていった。母の物忘れが、年齢によるものとしては酷いと思ったからだ。診断の結果はやはり認知症。すでに知らない場所に一人では行けなくなっていた。

少し前にテレビ東京の「カンブリア宮殿」という番組に私が勤めていた会社が紹介され、私がスタジオでデモをすることになった。村上龍さんや小池栄子さんと少し絡ませて頂き、放映でもその場面が少し使われた。母はこの時も喜んでくれた。

認知症になってしまった母だが、また私がテレビに出たならば喜んでくれるのではないだろうか。もしかしたら認知症の進行も遅くなるのではないだろうか。そんな気持ちもあり、引き受けることにした。

翌年の2012年に番組は放映された。DVDに録画した番組を施設の母の部屋で一緒に見たのだが、その時はすでにテレビに息子が映っているという事実はわかるものの、ストーリーは追えなくなっていた。一緒に見ていても途中で飽きてしまい、関係ないことを話し始める。ただ、施設の方から「息子さん凄いわねぇ」と言われた時は嬉しそうに微笑んでいた。

少しは自慢できる息子になっていただろうか。


最期の数年は、下半身を怪我をして車椅子生活となり、行動が抑制されたことでさらに認知も進んでしまったのか、徐々に私や姉のこともわからなくなってしまっていた。わからないながらも行くと笑って迎えてくれる母。

しかし、新型コロナの影響で面会があまりできなくなった一昨年くらいから誤嚥性肺炎を何度か起こし、心不全も悪化した。都度、医者からも驚かれるほどの回復を示したので、今回もと僅かに期待していたが、それも叶わなかった。

火曜日の午後、見舞いに急ぐ途中、施設から息を引き取ったことを伝えられた。あと1時間。あと1時間早ければ寂しく一人で旅立たせることもなかったと悔やまれる。


今日、家族葬という形で母を見送った。質素だったが、家族や親族に囲まれ、心のこもった会になった。

母は音楽が好きだった。葬儀社の方から色々なオプションを聞く中で生演奏も可能と聞いたので、お願いすることにした。鍵盤とバイオリンの二重奏。楽曲リストから曲をリクエストできるので、その中から何曲か、そしてそれ以外でも可能ならばと数曲選んだ。父が生きていた頃に家族で行った映画のテーマ曲。母が3月になるといつもピアノで弾いていた幼稚園の卒園式で弾く曲。他にも何曲か。そして、絶対に外せなかったのが、東日本大震災のチャリティーソングとして作られた「花は咲く」。この曲を最初私は知らなかったのだが、母が良く口ずさんでいたことから知った。おそらく母は施設で合唱でもして覚えたのだろう。よほど気に入ったのか、私や姉の家に宿泊するために、施設との間を送り迎えする時などに車の中で歌っていた。この曲は絶対にお願いしよう。出棺の際にはこの曲にしよう。

参列される親戚のために、母の若い頃から今までの写真をお見せしたらどうだろう。そんなふうにも思い、Googleフォトなどを使ってフォトムービーを作った。母が好きそうな(著作権フリーの)楽曲も被せた。フリップタイプのChromebookをタブレットのようにして動画をループ再生し、デジタルフォトフレームのようにしよう。

葬儀の会場では、二重奏もデジタルフォトフレームも好評だった。

しかし、葬儀の場の演出などは所詮家族の自己満足に過ぎない。なぜ、生きているうちに音楽をもっと聞かせてあげなかったのだろう。なぜ、昔の写真をもっと見たりして、一緒に楽しまなかったのだろう。車椅子になる前や認知症がまだ進行していないときに時間はあったはずだ。

少し拗ねたように、そうよ、卓也。と怒っている母の顔が浮かぶ。


最後まで親孝行の息子にはなれなかったが、私は母の息子であったことに感謝している。母が母でなかったならば、私は今のように好きなことをして生きてはこれなかったろう。私が何をしても、いつも味方であってくれた母。

お母さん、ありがとう。

2022年3月2日水曜日

全人類が読むべき書籍「人を動かす」


現在、私はスタートアップから大企業、さらには個人に対しても色んなアドバイスをすることを生業としている。

アドバイスの多くは私自身の経験に基づくものである。自分で試行錯誤した結果に見出した知見を形式知化し、それをお伝えしている。

そのような経験則に基づくアドバイスだが、後になって、実はすでに確立された知見だったことを知ることがある。

その1つに、自分の中である結論を持っているときでも、相手の口からその結論を言わせるようにするというものがある。誰から見ても正しいことが明確な場合は、そんなまどろっこしいことはせずに指示すれば良い。しかし、説明しても納得してもらえるかわからないものの場合は、いきなり指示を与えても自分ごとにはならない。勢い、上司のための仕事となり、やらされ仕事となる。

そのような場合は、こちらから結論を一方的に伝えるのではなく、自ら考え同じ結論を導き出して貰う方が良い。この方がいわゆる「腹落ち」した形となる。

文字にすると、誘導尋問的で、なんとも嫌らしい感じになるが、実際には相手からその結論を引き出す目的で話しているうちに、別の結論が導き出されることもあるなど、一方向で結論を共有するよりも良いことが多い。

このような指示の出し方や目的の共有の仕方を私オリジナルだとは思ってもいなかったが、実は時代を超えた名著にそのものずばりのことが書かれていた。

その書籍が「人を動かす」だ。

この本は前から知っていたが、怪しい自己啓発本と思っており、手に取る気にならなかった。今となっては恥ずかしい話だ。

偏見を抜きにして読んでみたら、今まで無意識のうちに実践していたことが見事に言語化されているし、50年以上も生きていながら意識してもいなかったことを今さらながらに気付かされるなど、さすが名著と言われるものだけのことだと唸りまくった。

検索すれば、本書を要約したものがいくつもある。また、要約本や漫画版もあるので、内容について知りたければそれらをあたって欲しいが、個人的には本書は要約ではなく、オリジナルを読むべきだと感じた。


理由は、一つ一つの原則について、それを裏付ける豊富なエピソードがこれでもかとばかりに展開されているからだ。これは本書に限る話ではなく、海外のビジネス書や自己啓発系の書籍に良くある典型的な構成だ。豊富な裏付けデータが展開されるので、読むのに時間がかかってはしまうが、それが故に説得力が増す。このような処世術や今で言うライフハックはともすれば「俺が考えた最強の」になってしまいがちだ。いや、そうでなかったとしても、読者からすると、それは生存者バイアスではないか、サンプル数=1で語られてもなんだかなーとなってしまうこともある。しかし、本書のように多くの事例で裏づけられると、納得せざるを得ない。また、具体的にどのように活用すれば良いか考える材料にもなる。

また、この事例が本書が書かれた時代よりもさらに古いものとなるため、今となっては歴史上の偉人のエピソードを知ることにもなり、ちょっとした歴史物としても楽しめる。ちょっと脱線するが、私は本書の著者デールカーネギーを鉄鋼王カーネギー(こちらはアンドリューカーネギー)と同一人物と勘違いしていたが、別人だ。本書の中で鉄鋼王カーネギーのエピソードが語られる段になり、初めて気づいた。自分の無知にも恥ずかしいが、カーネギーに限らず、米国の有名企業の創業者のエピソードなども知ることができるのは本書の隠れたもう1つの魅力だろう。

ここまではひたすらベタ褒めしているが、付録となっている「幸福な家庭をつくる七原則」は読む必要は無い。古い価値観(男女観や家庭観)に基づく内容となっている。歴史を知る意味で読んでも良いと思う人もいるかもしれないが、私は読んでいて不快になってしまった。

しかし、最後に後味の悪い付録があることを除けば、やはり名著だ。

人に何かを働きかける必要のある人ならば是非読んで欲しい。上司となった人、上司に何かをして欲しい人、私の仕事に関係するところでは、プロダクトマネージャー、プロジェクトマネージャー、エンジニアリングマネージャーなどマネジメントと名前のつくポジションの人、そのようなマネジメントの人に自分の意向に即して動いて欲しい人など、まぁ、全人類だ。純粋に読み物としても面白いし、お勧めだ。

2021年10月17日日曜日

子どもが自ら学び出す! 自由進度学習のはじめかた

以前に何度か、小学校のプログラミング的思考教育の関係でお話をさせて頂いた蓑手章吾さんに今度またお話を伺わせて頂くことになったので、著作である「子どもが自ら学び出す! 自由進度学習のはじめかた」を読んでみた。

教育関係者でも無かったので、自由進度学習とは何かも知らなかったが、結論から言うと、これは一般ビジネスマンが読んでも参考になる情報が満載だ。

自由進度学習とは

まず、自由進度学習とは何か。

これは学習の進度を子どもが自ら決めるというものだ。教師から全員に対して教えるのは授業の最初の10分のみで、その後、どのように何をやるかは子ども自身が自ら決める。

何をやるか、すなわちゴールは「めあて」と呼ばれる。ある子はプリントを10枚進めるというめあてをたてるが、別の子は今回の内容が苦手だからじっくり理解したいと2枚とする。このように、それぞれ自分で到達目標をたてる。

そして、その めあて に向かってどのように進めるかも子どもに任される。先の例として出した めあて はどちらもプリントだったが、GIGAスクールで子ども達に配布されているタブレットでの学習でも良い。また、ヘッドホンをして音楽をしながら勉強する子、友達と一緒にわからないところをお互いに教え合いながら勉強する子などなど、その学習スタイルもまちまちだ。

授業の最後は振り返りの時間となる。丸付けなどをして学習成果を測り、次の目標(めあて)設定の際の参考とする。

これが一連の流れだ。

詳しくは以下の2つの記事でも読んで欲しい。

このような形態の授業を行っているというだけでも驚きなのだが、このような授業を行う背景やこれを成立させる様々な工夫は社会人にも共通するものだ。

学びは本来楽しいものであるはずなのに、子どもたちはそれを強制させられることで学びが苦痛となってしまっている。思えば、私の小学生時代もそうだった。私は体が小さく、2歳のときに大病をしたこともあって病気がちで、そのため体育が苦手だった。後に体が人並みに大きくなったときにわかったことだが、体が成長するだけで体育という教科のかなりのことは苦なくこなせる。小学生の頃は体の成長が大きく異る。約1年年齢が違うものでも同じ学年になり、そして、他者と競わされる。

体育については、あるイベントで生涯スポーツを進めているその道の大家とご一緒させて頂くことがあったのだが、その方は体育の目的には健康的に人生を過ごすために、生涯を通じて体を動かす習慣をつけることもあるはずだとおっしゃっていた。それなのに、今の体育はルールにうるさかったりして、スポーツ嫌いを作ってしまっていると嘆かれていた。まさに、少し前までの私だった。

蓑手先生も私に「学校とは魅力的なすべてのものの魅力を失わせる場所だ」と冗談っぽく話してくれたが、確かに細かい進度などよりも、学ぶことの楽しさを培うのが重要だ。学ぶことの楽しさとその方法を習得したならば、その子は一生学ぶだろう。

現在、リスキルとかリカレント教育の重要性が謳われているが、その根本にあるのが、この学ぶことの楽しさだ。

日本の生涯学習率は先進国の中で最低だ。

日本の成人の「生涯学習」率は先進国で最低|ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト

これには様々な背景があるが、1つにはそもそも学ぶことに対する意欲、さらにはその根源にある学びを楽しいと思えることが欠けているのではないか。それには、学びを自らに取り戻すこと、すなわち自由進度学習の考えこそ大人を含むすべての日本人に必要なのではないか。

OKRとの類似点

書籍を読み、自由進度学習の理解が深まる中、これはOKRとも似たところがあるなと感じた。

OKRとは?Google採用の目標管理フレームワークを紹介 - Resily株式会社(リシリー)

子どもが設定する めあて はストレッチゾーンの中にあるものが求められる。

良く、コンフォートゾーンにとどまっていては駄目だ。勇気を出して、自らの殻を飛び出そうというようなことを言うが、それがまさにストレッチゾーンの領域だ。自らの実力を顧みずに、または他の人から強制される形で、まったくできそうにないことに挑戦するのは、もはや危険であり、パニックゾーンと呼ばれる領域に入るものだ。


自由進度学習でも、このコンフォートゾーンから飛び出し、ストレッチゾーンでの目標(めあて)を作ることが推奨される。

蓑手先生の自由進度学習での授業での最後の10分の振り返りでのシーンが書籍では紹介されている。

振り返りで「ぎりぎり達成できませんでした」という子には「お、ぎりぎりのよいめあてが立てられたんだね!」と賞賛し、「100点だった!」という子には「惜しかったね、次はもうちょっと高いめあてを立ててみよう」と声をかけます。

これはまさにOKRでのKey Resultsの設定ガイドラインと同じだ。

Google re:Work - ガイド: OKRを設定する

子どもの場合、学校も親も「発達段階」という「この学年ならばこのレベルまで発達していることが望ましい」という考えに支配されてしまっている。あくまでもガイドラインとして、そのようなものが必要と思うが、先に述べたように、特に小学校段階であれば、その成長スピードは子どもごとに異なる。子どものころから必要以上に他人との比較にさらされてしまうことにより、本来持つ成長の喜びや学習の楽しさが失われている。これが今日の日本の教育現場の実情だ。

これと同じことが日本の会社組織で起きていないか。他部署との比較や他社との比較。それよりも、自らが設定した高い目標(めあて)に対して挑戦することが重要だ。

書籍では別の教師からのエピソードで蓑手先生の失敗に対する寛容さについても明かされる。クラスでトラブルが起きた時、その教師が蓑手先生に相談したところ「いいですねぇ」と笑顔で喜んだという。成長するチャンスだ。失敗は成長のチャンスと言葉では言うものの、実践できない人や組織が多い中、まさにその実践を象徴するエピソードだろう。

OKRとの類似点に戻るが、ストレッチゴールを求められるということの他にも、目標(めあて)がクラスに公開されるということや採点は自分自身で行うことなど、類似点がある。仕事の目標と個人の学習という違いはあれど、この自由進度学習での進め方は参考になるだろう。

山頂だから見える景色がある」。これは蓑手先生が全力を出すのを怖がる子どもたちに言った台詞だ。我々大人もこの言葉を噛み締めたい。

マネージャーのあり方

他にも書籍で社会人にも参考になると感じたのがマネージャーのあり方だ。書籍ではマネージャーではなく、教師のあり方という形で紹介されているが、マネージャーと教師はともに重なる部分も多い。

蓑手先生は教師はコーチであり、メンターであり、ファシリテーターであるべきと言う。教えるという役割はもちろん必要だが、それよりも子どもたち自らが学ぶことを支援する立場として存在すべきだと。

書籍では「大人さえ答えを知らない未知の領域に、突破口を見出して進んでいけ力」を養う必要があると書かれているが、まさに今の多くの組織に必要なのはこれだ。答えが無いものに対して、答えそのものや答えの導き方を教えることはできない。教科書「的」なものはあっても、それはあくまでも答えに到達するための1つの材料でしかない。その教科書に書かれているものも今となってはすでに通用しないのかもしれない。そんな中、教師的な立ち位置も求められるマネージャーがすべきことは、コーチングであり、メンタリングであり、ファシリテーションなのだ。答えを引き出すことや一緒に考えること。それこそがマネージャーが行うことだ。

自由進度学習では教師は最初の10分教えた後は子どもたちの自らの取り組みをひたすら見守るだけだ。教育の現場ではこれを「机間指導」と言うようだ。

机間指導

蓑手先生は1時間の授業で最低10周はすると言う。

マネージャーはともすると、定期的に開催されるミーティングで自分の予定が詰まっていることも多い。しかし、自らの出席が本当に求められているものはどれくらいあるだろうか。部下に任せておいて良いものも多いのではないだろうか。定例のミーティングはひたすら人の時間を奪う。定例化されることにより、すべての議論や結論が次回定例まで先送りされかねない。

それよりも、必要なことを伝えたならば、部下の自主性にまかせ、自分のスケジュールの空白を多くするのが良い。ぷらぷらと歩き回り、自分の部署や他の部署の人たちと会話する。これにより、状況がよりリアルにわかるし、リアルタイムにフィードバックできる(次回定例まで待つ必要もない)。「机間指導」から学べることも多いのではないか。

部下の成長という観点からも、自由進度学習の教師の役割を知ることは良いと思う。

インクルーシブを考える

蓑手先生は4年ほど特別支援学校で教えられてる。まさにインクルーシブを理解し、実践されていた先生だ。

その蓑手先生が新型コロナ感染症の中、子どもたちが学校に登校できないという中で取られた方針も我々社会人にとても参考になる。

休校要請の中、すべての学校が直面したであろう課題は「家庭にインターネット環境がない子どもをどうするか」であった。公平性を考えるあまり、全員にオンラインでの教育を提供できないのならば、オンラインという手段を用いるべきでないという考えもあったし、もしかしたら公立校ではそのような判断をするところも多かったのかもしれないが、蓑手先生がとられたはオンラインを活用すること。

その判断の源となったのは「人はそれぞれ違う。それぞれのよさを最大限に発揮できるのが教育」であるという考えだ。これは特別支援学校での考えと同じだ。一人ひとりはすべて「特別」であり、その特別に合わせて、できることをやるのが教育である。

オンライン環境が用意できるのにそれを用いた教育を提供しないことも不公平であるという考えのもと、オンラインでの学びを提供する。

日本のデジタル化は著しく遅れている。この1年の新型コロナ感染症禍でそれは誰もが知る状況となり、国でさえIT後進国を取り戻すべくデジタル庁を発足させた。その中で「誰も取り残さない」ということを掲げている。この考え方には100%賛同するが、同時に、行き過ぎた公平性には是非注意して欲しい。国民一人ひとりはすべて特別である。「誰も取り残さない」の「誰も」にはデジタルを駆使する人やオンライン環境にはまったく問題ないという人も多くおり、その方々のポテンシャルを発揮できないようにすることも、本来実現できることから考えると「取り残す」ことになるだろう。私が良く言う「1人も不幸にさせないために、全員が平等に不幸になる世界」を目指すようになることだけは避けて欲しいと切に願う。

オンラインにおける学び

リモートワーク推奨になり、同僚や上司、部下とのコミュニケーションに苦労している会社も多いだろう。この状況下で就職してきた新社会人や転職者には災難だったと思う。

新卒社会人や転職者に限らず、異動した人などにとって必要なのオンボーディングも、オフィスで一緒に働いていた仲間との仕事や会話を通じた学びも、そのままではオンラインでは難しい。

学校は会社以上に大変だったのだが、書籍では、学びに必要な要素を「時間」、「空間」、「仲間」の「三間(サンマ)」と紹介している。調べてみたところ、この「三間」という考えは教育現場では以前から言われていたようだ。

この三間だが、空間としての学校や仲間は新型コロナで大きく制限された。一方、時間は拡張された(家にいて、時間は無限にある)。

オンラインにおいて、この3つの「間」をどう再構築するかに多くの学校は苦心されたのだが、書籍ではスクールタクトを用いた様々な工夫が紹介されている。

この取り組みもリモートワークが中心になった、またはリアルトのハイブリッドが必要となった、多くの会社に参考となるだろう。

とりあえず読んでみよう

と、いくつか参考になりそう部分を紹介したが、学びの意味を再確認するにも、今の学校教育の問題を知り、対策を考えるにも、子どもの学びの世界から我々大人社会に参考となるところを知るにも、この本はお勧めだ。なによりも、読みやすいし、刺激をたくさん得られる。蓑手先生の魅力にも触れられる。

興味持った人は是非手にとって欲しい。

2021年3月29日月曜日

アラビア太郎

いい加減だった就活

今から30年以上も前の私の就活は人には言えないくらいにいい加減だった。

時はバブル全盛期。大学としては名の通っている早稲田大学の理工学部卒業が見込まれていたため、わがままを言わなければ一流企業と言われている会社のどこかには楽に入れる状況だった。しかし、学科が資源工学科で専攻が探査工学という少し変わった勉強をしていたことや、将来への展望も特に無いくせに変なこだわりがあったため、就活は困難を極めた。

親戚を頼って入ろうとしたシンクタンクは4大卒では難しかったようで諦めた。同期の多くが検討していた国産電機メーカーは肌に合いそうになかった。あるとき友人と府中にある電機メーカーの工場を訪問したら、同窓の先輩社員が歓待してくれたが、お昼休みのチャイムとともに、社員の方々が社食に走り込むのを見て、この会社では働けないと思った。ソニーには憧れたが、電気専攻でなかったため、入社試験の情報を得ようとした電話で門前払いを食った。

なんとなく雰囲気で外資系コンピューターメーカーが良いのではないかと思い、当時は横河電機の資本がまだ入っていたHP(当時の社名は横河ヒューレットパッカード、通称YHP)を訪問した。コンピューターだけよりも計測機器があった方が経営が安定してそうに思えたのと、自分もどちらかというと計測の方があっているのではないかと思ったからだ。

会社訪問後、そろそろYHPをちゃんと受けるかなぁと考えていたら、同じ研究室の2個上の大学院の先輩が先にYHPを受けてしまった。その年、その研究室からは私とその先輩しか就職は予定しておらず、先輩は私が先にYHPにあたりを付けていたにも関わらず、「及川くん、同じ研究室から2人も同じ会社は良くないよ。及川くんはDECが良いんじゃない?」と自分が落とされたばかりのDECを勧めてきた。YHPにさほど強い思い入れがあったわけでもない私はDECに書類を送った。

当時の記憶が曖昧なのだが、DECに書類を送るのが遅かったのか、選考プロセスに時間がかかったのかわからないが、夏近くになっても、まだ最終面接にもたどり着いていなかった。さすがに、焦った私は他に興味の持てそうな会社ということで、TBSとアラビア石油にも応募した。TBSは友人が受けるというから一緒に受けただけなのだが、技術職枠。TBS社内の見学ができて楽しかった。こちらはほとんど選考が進まないうちに他の2社が決まったので辞退したはずだ。

最後まで選考が進んだのが、DECとアラビア石油。DECから内定が出た翌日にアラビア石油から役員最終面接があるので来てくれという電話がかかってきた。形式的なものと言っていたので実質的な内定通知だった。すでにDECに決まっていたので、辞退したが、DECからの内定通知が1日~2日ずれていたら、私はアラビア石油に就職していたことだろう。

その頃のことはデベロッパーのキャリアと働き方を語ろう vol.2の中のインタビューで語っている(今見たら、Kindle Unlimitedだと無料で読めるようなので、是非読んで下さい)。

アラビア石油という会社

このアラビア石油という会社、今の方はあまり知らないだろう。今でもまだある会社だが、私が就活していた頃とはまったく違う会社になっている。

話は私が生まれる前の昭和30年代に遡る。戦後からの復興を果たし始めた日本であるが、経済成長のためのエネルギー供給については欧米の石油メジャーに完全に依存していた。これを脱するには、日本が自ら中東に鉱区を持たなければならないとの信念のもとに、サウジアラビアとクウェート両国との交渉の末に採掘権を獲得し、石油の開発をスタートさせたのが、アラビア石油だ。一時は法人所得ランキングでトップになったこともある。


自分が就職していたかもしれない会社ということや大学の同期が石油関係や資源探査関係の会社で働いていたこともあって、常にアラビア石油のことはどこかで意識していた。就活時に、アラビア石油に入社することになったらサウジアラビア勤務になるとも聞かされていたので、中東の情勢にも他人よりは関心が深かったと思う。社会人になってしばらくたって起きた湾岸戦争もテレビニュースを食い入るように見ていた。

21世紀を迎えようとするころ、この会社は大きな危機を迎えた。アラビア石油がサウジアラビアとクエートで採掘を行っていた鉱区の利権の更新が行えなかったのだ。サウジアラビアは多額の費用が必要とされる鉱山鉄道の開発と運用を要求してきた。この会社の成り立ちからしてそうなのだが、もはや一企業の判断ではなかった。実質的な国家間の交渉の中、アラビア石油と日本は利権の延長を諦める。そして、数年後にはクエートとの交渉にも失敗した。

鉱区を失ったアラビア石油は経営合理化を進める。当時330人いた社員は180人とほぼ半減にすることになった。それに伴い、希望退職者が募られた。希望退職者には割増退職金が支払われるが、残留希望したとしてもそれが叶うか、また叶ったとしてもいつまで会社が存続するか不明だったこともあり、2週間の募集期間のうちに全社員が応募したようだ。一方で、当面のオペレーション継続のために一定数の社員は確保しなければならないという事情もあり、再雇用希望者も募った。

当時、そこまでの内情は知らなかったのだが、鉱区延長に失敗した結果、全社員が1年ごとの契約社員となったというように理解していた。ちょうど石油公団が不良債権問題により廃止されたのも同じころだった。アラビア石油にも石油公団にも、大学の先輩や後輩がいたこともあり、自分ごとのようにこれらのニュースを見ていたことを思い出す。

その後、アラビア石油は精製部門の子会社だった富士石油とともに統廃合を繰り返すなどして今に至る。正直、今がどうなっているか良くわからない。

アラビア太郎

歴史となってしまったアラビア石油だが、なんで急にこの話を思い出したかというと、去年ダイヤモンドで次のような記事があったからだ。

アラビア石油の創業者の「アラビア太郎」こと山下太郎氏のことは名前は知っていた。しかし、その生涯についてはぼんやりとしか知っていなかった。このダイヤモンドの過去の経営者インタビューを再掲した記事で、初めてアラビア石油創業者山下太郎氏の肉声を目にする機会を得た。(脱線するが、週刊ダイヤモンドは大正2年創刊という歴史を持つ。知らなかったので、かなり驚いた)

私が学生時代に勉強していた資源探査というのはその性格上、山師的な人が多くいる。

山師とは何か。

職業として鉱脈を見つけ出す専門職のことをもともとは意味していたと思うが、鉱脈を見つけることのように可能性が低くても、当たれば大きいものを狙うことから、大博打を打つことを好む人を指すようになった。

山下太郎氏はまさに最後は資源探査という本来の山師であったが、それに至るまでに行った事業でも、博打という意味での山師であったようだ。どんなことをした人かというと…

クラーク博士で有名な札幌農学校(現 北海道大学)何かでかいことをしたいと思っていた彼は、オブラートの工業化を行う。そしてそれを成功させた後、事業を売却し、次に行った雑穀やブリキの取引で一財産を築く。好景気にも支えられ、鉄材や肥料など手を出すものすべてがうまくいった。ロシアからの鮭缶の輸入では革命後のどさくさで約束を不履行にされそうになるも、人脈を辿り当時外務省の秘書官だった松岡洋右氏経由で国を動かし、解決する。その後も硫化アンモニウムや米の取引を行う。米は当時米不足に悩んでいた日本のために、輸出が禁じられていた中国から輸入を試みた。国家を巻き込んだ密輸入なのだが、最後の最後にそれは失敗する。しかし、内地での使用に流用することで決着をみた。第二次世界大戦中は満州で満州鉄道の住宅建設などを請負い、大儲けをする。この頃は満州太郎と呼ばれていたようだ。しかし、戦後、財産はすべて没収される。数行で書いたが、この1つ1つがそれだけで自伝として本にできそうなほどにドラマがある。どれもとてつもなくスケールがでかい。

ダイヤモンドの記事の中でも山下氏は次のように言う。

 私は山師、大いに結構と言う。

 いま、それどころか、この世に一番大事なものは山師の根性ではあるまいか。山師の根性なくして、なんの事業ぞや、と言いたい。

山師の定義を投機とするならば、儲け主義に見え、軽蔑の対象とさえなろう。しかし、山下氏の言う山師にはそこに大義がある。彼が師と仰ぐ松本烝治氏(幣原内閣での憲法改正担当国務大臣を務めた商法学者)からは「山下こそは信義の人である。士魂を持った事業家である」と言われたという。

この山下氏が大義を持って人生最後に取り組んだのが、先に紹介したサウジアラビアとクエートからの鉱区獲得だった。この事業に取り組み始めたのが69歳のときだったというのに驚かされる。人生80年時代、いや100年時代と言われる今とは違い、55歳で定年を迎え、60歳では隠居生活に入って頃の話だ。そのバイタリティと知的・肉体的な体力は称賛に値する。

ダイヤモンドの記事(有料)でも彼の半生や人物像はわかる。しかし、さらに知りたくなった私は次の書籍をさらに読んでみた。

この小説仕立てで書かれた書籍から知る彼の人生は、まさに波乱万丈。大正から戦後までの時代とともに駆け抜けた彼の人生哲学と行動原理がわかる。今の時代にはそぐわない部分は多くあれど、今の日本に欠けているものも多く見つけられるだろう。

事業や経営には、浪漫と算盤が必要と言われるが、彼の成功の裏には常に浪漫がある。「でかいこと」の定義には大義がある。それにさらに彼ならではの人脈づくりと投資手法が加わり、アラビア石油という歴史的偉業へと繋がったのではないか。

浪漫とは、新しいものを見つけたいという気持ちだろう。早世した私の出身研究室の教授も探査の研究を続ける理由は浪漫だと言っていた。私が研究室に配属になってしばらくして海外留学に旅立ってしまった先生とはあまり直接お話する機会が無かったのだが、ある時の飲み会で生意気にも「探査って地下構造を知ること、すなわち人間の未知の世界を知ることの1つだと思うんですよね。浪漫ありますよね」とか話しかけたら、ぼそっと「浪漫しか無いよ」と先生も言っていたのを思い出す。ここじゃないどこかに行きたいという気持ちが浪漫だ。(ちなみに、高校時代は文学部史学科を志していたこともあった。早稲田大学の吉村作治先生のエジプト調査隊に憧れたからだ)

この本、昭和臭が強いので好き嫌いが分かれると思うが、元気を貰いたい人、今の閉塞感漂う状況を打破したいと思う人は是非とも読んでみて欲しい。

日本の科学技術への理解

社会がパンデミックの驚異にさらされて早くも1年以上が過ぎようとしている。この中で、我々日本人が知ることになったのは、科学技術立国であるはずの日本の現状だ。もちろん、まだまだ日本が先端である分野も多い。しかし、検査体制の拡充やワクチン開発やワクチン接種の遅れ、様々なデータの不備、IT活用の未熟さなど、目を覆いたくなるような現実を見せつけられた。このような状況はバブル崩壊後に特に顕著になったと思っていたが、実はそうでも無いのかもしれない。

書籍「アラビア太郎」の中にもあるエピソードが語られる。敗戦が濃厚になる中、山下氏が気のおけない仲間と交わした米国の兵器の優秀さをきっかけとした会話だ。曰く「日本の飛行機は目的地に着く前に電波探知機で捉えられ撃ち落とされてしまう」「B29は中が気密になっていて、1万メートル上空でも地上と同じように呼吸ができるが、日本の戦闘機は風防ガラス1枚でおおわれているだけなので呼吸困難になり気絶してしまう」。

これに対して、科学技術の問題かという知人に対し、別の知人が「経済力の問題だ」と答える。

「それはね、こういうことなのだ。日本の科学は、理論面では相当の水準に達している。アメリカやイギリスにくらべて、そんなに見劣りしないところまでいっているのだ。ただ、それを技術面に生かすことができない。技術の開発には、設備だとか人手が必要だが、それには膨大な金がいるからね。大学や研究所で、いくら金がいるといっても、政府はなかなか出そうとしないのだ」

「それはそうだ。さっきのB29のはなしだが、飛行機の内部を気密にするくらい、理論的には簡単なことなのだ。理論といえないくらいのものだ。ただ、それをやるには、金がいる。逆にいえば、金さえあれば、われわれにだってB29くらいの飛行機が作れないことはないということになる。しかし、役人たちにいわせれば、気密なんて贅沢だという。金持ちの息子の遊覧飛行じゃあるまいし、住み心地のいい部屋の中でチューインガムを噛んだり、口笛を吹いたりしながら、戦争ができるものかというのだ。結果はどうかといえば、チューインガムを噛んだり、口笛を吹いたりしている連中に、撃ち落とされるということになる」

「こんなことも聞いたよ。墜落したB29の残骸を調べてみたら、電波探知機のアンテナに”ヤギ”というマークが入っていたそうだ。つまり、日本の八木博士が発明したアンテナだね。八木博士がこのアンテナを完成したとき、政府へ採用を申し入れたが、陸軍も海軍も、見向きもしない。結局、アメリカから高い特許料で買いに来たので、売ってしまったのだそうだが、そのむくいを、今われわれは空襲という形で受けているわけだ」

この会話をどこかデジャヴュに感じてしまうのは私だけだろうか。

参考情報

このブログ記事を書くにあたって、記憶が曖昧だった、2000年当時のアラビア石油の情報を探していて、次の資料にたどり着いた。

まず、アラビア石油社員でいらっしゃった前田高行氏の「挽歌・アラビア石油 (私の追想録)」。ご自身のブログで連載されていたものが一括してPDFで読めるようになっている。これは力作である。中途で入社されたアラビア石油の1976年~2000年までのことを中の人の言葉で書かれている。アラビア石油の最後だけでなく、湾岸戦争のときの様子などが書かれている。不勉強にして存じ上げなかったが、著者の前田高行氏は中東研究者として著名な方のようだ。中東関係の書籍もいくつか出されている。

もう1つ参考にしたのが、こちらのサイトだ。

Yellow Hiro's TOPIC#2-14b アラビア石油

こちらは鉱区の利権延長交渉のニュース記事をクリップしたものだが、当時の緊迫感が伝わってくる。